【第1回】有森裕子理事長とドリームサポーター対談

スペシャルオリンピックス日本の活動理念に共感し応援して下さっているドリームサポーターの安藤美姫さん、平岡拓晃さん、小塚崇彦さん にスペシャルオリンピックス日本の活動に関わるきっかけやアスリートへの思いを聞きました。


左から、安藤美姫、小塚崇彦、平岡拓晃、有森裕子(SON理事長)

─ スペシャルオリンピックス日本(以下、SON)と関わるキッカケからお話しいただきます。

安藤 私は2015年に、冬季ナショナルゲーム新潟の大会開催記者発表に、大会サポーターとして参加させていただいたのが最初です。その後もいろいろと関わらせていただいて、アスリートの皆さんがスポーツを愛して、自分の向き合っている競技に向上心をもって取り組んでいる姿を見て、健常者の方々と何も変わらないんだなと感じました。

─ SONと関わって心の中に何か変化はありましたか?

安藤美姫(あんどう・みき)
2010年バンクーバーオリンピック フィギュアスケート5位入賞/現プロフィギュアスケーター

安藤 スポーツに向かう真っ直ぐさっていうのが、私たちより何倍も強い。その姿に輝きをすごく感じるんです。練習しているのを見て「自分もああやって取り組めば、輝くことができるんだな」と教わり、すごく刺激になりました。私は個人の競技ばかりしてきたので、あまり団体でやる機会がなかった。仲間と一緒にやる感覚も「いいな」って思いましたね。

有森そういえば、今日は皆さん個人競技の方ばかりですね。安藤さん、小塚さんが加わってくれたことで、冬季競技のサポーターも増えてとても嬉しいです。

─ 次に平岡さん、SONと関わるキッカケを教えてください。

平岡拓晃(ひらおか・ひろあき)
2012年ロンドンオリンピック 柔道男子60キロ級銀メダリスト

平岡 僕は有森さんから声をかけていただいて、去年から活動させてもらっているんですが、それまで知的障害のある人に柔道を教えている現場を見たことがなかったんです。ヨーロッパから2つのチームが来て練習しているのを講道館で見た時、教え方がまず違った。教える方も教わる方も、こんなに楽しく柔道をやるんだな、と驚いたんです。彼らは柔道に関わっていること、柔道着を着て畳に立つことに誇りを持っている」という話を聞いて、これはすごいなと思いました。日本から始まった柔道なのに、日本のSONの柔道競技存在は知られていなくて、指導方法も遅れている。それでこれからもぜひサポートに関わらせていただきたいな、日本の柔道の受け皿を広げていけたらなと思いました。

─ 海外の指導方法に衝撃を受けたというお話がありましたが、具体的な日本との違いというのは?

平岡 海外の人も一生懸命取り組むんですけど、それをいかに楽しんでできるかを工夫しているところですね。ゲーム感覚を取り入れていて、笑い声が出る。僕は「楽しんで」という感覚は現役時代はあまりなかったです。必死で。でも、原点に遡ってみると、最初は柔道が楽しいからやっていたんです。初心を思い出させてくれたのが海外の人たち。楽しむことは、スポーツの、最も重要な部分だと思ったので、僕もそこを大切にして教えていきたい。

―日本では健常者と知的障害のある人が一緒に練習する機会が少ないのですか?

平岡 そうなんです。僕の時代は、パラリンピックの代表選手ともそういう機会はなかった。でも海外の選手は、皆一緒に練習します。日本でもそうなればお互いがいい意味で、刺激し合えると思います。

有森 楽しく厳しいっていうのが、日本にはあまりないですね。一生懸命さが削がれるとか、レベルが違うとか、そういうところで一緒になれない。でも一生懸命は違わない。見た目は違うにしても、精神は全然変わらない。私たちよりも彼らの方が、自然にそれが出来ている。それを知ることによって、私たちも頑張れるんです。


―小塚さんがSONに関わったキッカケは?

小塚崇彦(こづか・たかひこ)
2010年バンクーバーオリンピック フィギュアスケート8位入賞/トヨタ自動車所属

小塚 僕はエールラン(第6回=SON主催のチャリティランニングイベント、2016年10月1日・東京都港区)が最初です。実際に走ってみて、チームで応援しながら、健常者もSONのアスリートも一緒に走るのが、すごくいいなと思ったんです。そんな雰囲気の中で自分も応援されて大分乗せられた感があって、9周も走っちゃいました。フィギュアスケートの練習でも一緒に滑ってるとSONのアスリートがスリスリッと寄って来て、手を「キュッ」と握ってくれたりとか。その時の姿が、とっても楽しそうなんですよね。僕もスケートを始めたのはやっぱりスケートが好きだったからで、そういうところを思い出させてくれた。

この8か月社業に専念していて、スケートに関わることが少なかったのですが、SONのアスリートと交流して、もう一度フィギュアに関わりたいな、と思わせてくれました。この力ってすごいですよね。それをみんなに知ってもらいたいなという思いから、少しずつスペシャルオリンピックスにのめり込んでいってます。真剣に取り組むというスポーツの本来あるべき姿、楽しみ方というのを、彼らは知っているんだなと僕は感じました。

―現役の頃は、皆さん自分と24時間向き合っているような状況だったと思うのですが。

安藤 私は24時間競技を考えているようなタイプでは、逆になかったんです。9歳の時にスケートと出会ってから「楽しい」でしかやってきていなかったので、結構「ダメアスリート」と言われ続けたんです。でもSONのアスリートたちと一緒と関わるようになってから、「これで良かったんだな」と思えたんです。楽しいと思って好きで始めたスポーツで、ずっと10何年も関われるのは本当にごく一部の人。それってやっぱり「どこかで楽しさを忘れなかった自分がいたからだな」と再認識した。「ダメアスリート」と言われ続けたけれども、SONのアスリートのみんなと関わらせてもらって「自分の気持ちは間違っていなかったんだな」って気づかせてもらった。 

―「ダメアスリート」みたいな言われ方は、「こうでなければ従来の枠を超えてきたからだとも思いますが。

安藤 良く言っていただいてありがとうございます(笑)。私たち(安藤さんと小塚さん)が小学生のころ一緒に練習していた環境に(障害を持った方が)いたんで、別で練習するのが実は私たちには逆に不思議だったんです。

小塚 お二方いて1人は大学生で、もう一人は高校生。2005年長野のスペシャルオリンピックス冬季世界大会に出ていて、もう1人は健常者の全日本選手権にも出ていました。自閉症の方でしたが、繰り返し繰り返しやること、純粋に競技に打ち込む姿勢はすごかった。今、こういうことに関わらせてもらっているから、さらによく分かります。

安藤 私は小学校にも知的障害のクラスがあって一緒に過ごすのも違和感はなかった。だから「SONで、気づかされることがすごくたくさんある」というのを聞いて、逆に「普通の人はそうなんだ」と・・・。

小塚 障害を持っている方の方が、秀でている部分もありますよね。

有森 私たちの世代は一緒に過ごすことも少なかったけど、ご本人たちの意思や状況によって、一緒に勉強できるところはやらせてほしいとか、そういうことがある世代の人たちが増えてくると、こういうSONの活動とかは、もっといろいろ変化していく。安藤さんのところは一緒だったんですね。

安藤 学区の中では一校だけでした。遠足で同じグループだったり、一緒に手をつないで帰ったりしていました。

小塚 そういうクラスはまとまっている印象もあります。この間「夢の教室」(日本サッカー協会のプロジェクト)で学校に行って、健常者と障害者の生徒さんを教える機会がありました。障害者のクラスの方が教えていてもまとまりがあるというか、人を思いやる気持ちを自然と(出すことが)できるようにしてくれる。その力というのは、すごいなと思いました。

安藤 そうですね。でも、そういう子供ばかりじゃなくて、難しい部分もありますよね。緊張から動かなくなっちゃう子とか、叫んじゃう子とかいました。自閉症の子が冷たいリンクに座り込んじゃったりすると、その子の心を壊さないでどう前に進めるのか。「放っておけばいいよ、そしたら落ち着くよ」とか言われるのですが、そうするとその子との会話がなくなってしまうと思ったので、私はずっと待っていました。で、話すことによって心を開いてくれて、やっぱり「できないから」っていうのがあったみたいで。そこはどっちがいいのかなって、手探りではあったですが。「どうしたら、この子達の気持ちにスッと入っていけるのかな」とすごく感じたところはあります。


―来年行われるスペシャルオリンピックス2018愛知のテーマは、「超える喜び」です。これまでの人生の中で、何かを「超えた」体験があればうかがいたいのですが。

安藤 2011年に東日本大震災があった時に、日本で行われるはずだった世界選手権が中止になりました。その時、各国が手を挙げてくれた中で、ロシア(モスクワ)で開催されました。この大会は(自分の競技生活の中で)唯一、フィギュアスケートが世界でつながって、日本に思いが届いたことを実感した大会でした。(同大会の成績は)私が優勝して、彼(小塚)が2位。終了後のエキシビションには高橋(大輔=5位)選手も出ました。この時、リンクの中央に日の丸を映し出してくれて、真ん中に私たち3人を立たせてくれたんです。ISU(国際スケート連盟)が「日本への思い」をテーマにエキシビション作りをしてくれて。世界の皆さんが、日本への思いを寄せてくれたのを感じました。世界中の気持ちが、フィギュアスケートを通じて日本に届くんだ、という実感がありました。リンクの上で、その時国境を越えたじゃないですけど、「あ、超えたな」と感じました。

小塚 海を越えて。この大会では閉会式だけじゃなくて開会式でも、ロシアの子供たちが世界の国々の民族衣装を着て登場し、日の丸を中心にして囲んで手をつないでいました。僕はリンクサイドで見ていたんですが、グッと来るものがあって、そのシーンは鮮明に覚えています。フィギュアスケートを好きな人が世界中から集まっていて、震災直後の日本を応援してくれていました。

安藤 世界選手権という大切な試合なんですけど、この時は試合のために行ったのではなくて…。それよりも「一人でも自分の演技を見て笑顔になってくれるんだったら、そのために滑ろう」と初めて思ったんです。実は私も、この大会は棄権しようと思いました。シチュエーションは違うんですが、9歳の時に父親を事故で亡くしていて…。朝方まで笑顔でいた人が突然いなくなる悲しみを知っていましたから。自然災害で一緒にいた家族が急にいなくなる経験をたくさんの人がしている。それで棄権も考えたんですけど、災害を経験された方から「こんな時だからこそ、美姫ちゃんのスケートで、元気がもらいたい。頑張って」というお手紙をいただいたんです。初めてスケートの力で人の心を動かすことができるかもしれないと思って、出場した大会でしたから、余計に嬉しかったです。自分もアスリートとして、一つ超えられたと思えました。

―平岡さんはいかがですか?

平岡 何かを超えられて、自分が成長したと思えた瞬間を考えると…。僕はロンドンオリンピックです。ロンドンでは、表彰台に立つことができたんですが、その前の北京オリンピックでは初戦敗退だったんです。しかもその時、僕と北京の出場を争ったのが野村忠宏さん。五輪4連覇を狙っていた大会で、僕が出場して1回戦敗退だったので、世間からものすごく批判されたんです。オリンピックですから、誰もが見ていて、柔道関係者や一般の方々から、耳にしたくない言葉とかもたくさんありました。でもまたオリンピックを目指そうと決める時、僕の批判記事などをわざと部屋に飾って、自分を奮い立たせたんです。だから表彰台に立った時に、応援してくれた人たちと、批判してくれた人たちの両方の声があったから、4年間頑張ることはで着たのだと思いました。その経験を経て、自分の心も成長させてもらったんだなと、感謝の気持ちしかなかった。金じゃなきゃダメだって言われる競技で、直後のインタビューは悔しい顔でしたけど、すぐその後の表彰式にはいきなり笑顔で出てくるという(笑)。そこで心の成長を感じ、乗り超えたな、という実感が得られました。

―たくさんのいいお話し、ありがとうございました!

左から、
小塚崇彦(2010年バンクーバーオリンピック フィギュアスケート8位入賞/トヨタ自動車所属)
平岡拓晃(2012年ロンドンオリンピック柔道男子60キロ級銀メダリスト)
有森裕子(SON理事長/1992年バルセロナオリンピック 女子マラソン銀メダリスト、1996年アトランタオリンピック 女子マラソン銅メダリスト)
安藤美姫(2010年バンクーバーオリンピック フィギュアスケート5位入賞/プロフィギュアスケーター)

インタビュア:小川朗(スポーツジャーナリスト)